柔らかく甘い違和感



「坊っちゃん、後でおつかいを頼めますか?」
キッチンで軽い朝食を済ませたティルは、差し出された食後のコーヒーを受け取り頷いた。グレミオが食器を片付ける流しの水音を聞きながら、テーブルに肘をつき飾り棚に並べてある亡き母の食器にぼんやりと視線を向けていた。
「坊っちゃん、行儀が悪いですよ」
ちらりと振り返ったグレミオが、食器を拭きながら注意する。
口煩い従者に小さく舌を見せながらも、ティルは大人しく姿勢を正した。彼の小言がティルを思っての事であると知っていたし、何よりこの温厚な従者は生真面目故に、怒らせると後々まで面倒くさいのだ。子供のズル賢さでもって、ティルは従者の望む通りもたれ掛かっていた体を起こし背筋を伸ばした。



棚にある食器類は母が嫁入り道具に持ってきた物で、ほんのりとクリーム色の陶器に薄い上品な青で複雑な模様が描かれている。高名な職人の手による物だそうだ。
オーダーメイドで世界に一揃いしかないそれらは、テッドに言わせれば一生遊んで暮せる価格らしい。

以前彼がほんの冗談で、いざとなったらこの食器を売れば良いなどと言った事があった。まだ幼かった自分はその冗談にひどく怒ったものだ。
テッドとて悪気があって言ったわけではないのだが。むしろ、死んだ母の物だと説明した時の沈んだ空気を盛り上げようとしたのだろう。
けれど小さかったティルは、母の物は死んでも売らないなどと大声で叫んで側にいたグレミオを驚かせたものだ。
テッドは黙って、ただ申し訳なさそうな顔をしていた。
いつも一緒にバカをする友人だが、早くに両親を亡くして一人で生きてきたせいか、そういう時の彼の顔はとても大人びて見えた。彼とて母を亡くしたティルの気持ちは分かるのだろう。状況だけで判断すれば、父親すら亡く天涯孤独の身の上であるテッドの方が、同情されるべき立場とも言えるのだが。
底抜けに明るく見える笑顔を持つ彼は、自ら不幸に浸ることなど無かったし、反対に寂しそうに母を慕うティルの方が、彼に慰められてきた。
それは幼いころだけではなく。今も父が戦場に向かったと言うと、テッドは親身になって心配してくれる。

数日前に皇帝直々の命で北へ旅立った父。
将軍であれば戦いの中に身を置くのは当たり前の事だったが、必ずしも無事に帰れると約束されていない旅立ちはいつだって残された者の不安を煽る。
戦場で拾われたというテッドは、父の事を尊敬していた。この家で共に暮すグレミオも、クレオもパーンも、父の事を慕っている。
偉大な父親を持ったことを誇りに思いこそすれ、敵対心を抱くには未だ幼すぎるティルだった。もう数年もすれば、自立の延長線で父を仮想敵と見なすようになるかもしれなかったが、今のところはまだそのような気配は見られなかった。
代わりにこの年頃は、父よりも母に対する思い入れが強い。ティルは記憶にすら残っていない母の話を聞き、その姿を思い描いて思慕の念を募らせていた。
飾り棚の食器はティルにとって、面影すら覚えていない母の、確かに存在した証であった。



「じゃあ、この箱をソニアの所に届けてくればいいの?」
テーブルの上に置かれた綺麗な箱の中には、グレミオが作った菓子が入っている。
隣家に住むソニアは父と同じく帝国に忠誠を誓う将軍だった。
女だてらに逞しいと言われている彼女だったが、その姿は美しく女らしいもので、白い手と細い面立ちに、柔らかな雰囲気を纏っていた。幼い頃より優しい姉のように接する彼女は、ティルに母親を連想させる人だった。
「ええ、お願いします。テオ様が戦場に向かわれて以来、あまりお元気がないとうかがいましたから。心配してくださっているのでしょう」
同じ将軍職であり、またソニアの父がテオの友人でもあったことから、両家は親しく付き合ってきた。ソニア自身もテオを将軍として尊敬していると常日頃公言していたため、両家の付き合いはソニアの父が死んだ後も変わらなかった。
「行ってくるよ。帰りにテッドのとこに寄ってくるから」
箱を手に取り、ティルは元気良く飛び出すように玄関へと向かう。
「はい、いってらっしゃい坊っちゃん。気を付けて!」
ドアを出た所で、グレミオの見送りの声が聞こえた。ティルが『百戦百勝のテオ将軍』の息子であると誰もが知っているこの街で一体何に気を付けろというのか。いつも出かける際に声をかけるグレミオは、その慣用句をおざなりではなく誠意を込めて口にする。



グレッグミンスターの石畳。
靴底が当たるカツカツという音を楽しみながら、広場に集まる白鳩たちを追い散らす。青空に向けていっせいに飛び立つ鳩を見上げると、爽やかな日の光が目に染みた。右手をかざして目を細める。鳩の姿はもう見えなかった。ティルは箱を振り回さないように隣家に駆け寄る。

扉を叩くと、ソニア自身が出迎えてくれた。女性といえども大人である彼女の背は、ティルよりも高い。見上げた顔は優しく微笑んでいた。
グレミオから預かった箱を渡すと喜んで、ティルをお茶に誘った。朝食を食べたばかりだったティルは、それでもこの誘いを断らなかった。
ソニアの家は、女気の無いマクドール邸と比べて、甘い匂いがする。
家庭的なグレミオが仕切るマクドール家はテオの趣向も相まって清潔で実用的な雰囲気が強いのだが、ソニアの家には白いレースだとかあちこちに飾られた花だとか、優しくて生暖かくて眠くなるような気配に満ちている。
以前テッドと一緒に訪れた際、彼はティルにこっそり、居心地が悪い、なんて言っていたが、ティルはこの雰囲気が好きだった。

顔見知りのメイドが居間にポットを運んでくる。ティルはすすめられたソファに腰を下ろした。
注がれた紅茶は花の香りがした。なんでも乾燥させた花弁を紅茶の葉と混ぜ合わせた物だそうだ。
花将軍が率先して取り入れたこの南方の茶は、今グレッグミンスターで大流行らしいが、生憎ティルはそういったものに詳しくなかった。
万事ソツ無く家事をこなすグレミオは、けれどやはり男性で、そういった流行り物には女性ほど敏感ではなかった。マクドール家の紅一点であるクレオはグレミオ以上にそういった事に無関心だったし、パーンにいたっては花よりダンゴ、質より量である。
流行物はなぜかテッドが詳しかったりするのだが、さすがの彼も花の入った紅茶については知らないらしく、ティルは何も聞いていなかった。

ティルの向かいの椅子に腰を下ろし、陶器のカップを口に運ぶソニアは、楽しそうに話してはいたが、その目にはどこか翳りが見えた。
『テオが旅立ってから元気がない』というグレミオの言葉を思い出す。
帝国を守る将軍として、また一人の友として、テオの事を心配しているのだろう。ティルは深みのある黒い瞳でソニアの白い顔を見つめた。
視線に気付いたソニアは、弱々しい微笑を浮かべる。いつも毅然とした光を放つソニアの瞳は、今は不安のためか微かに揺れていた。
心持ちうつ向いた顔に浮かぶのは憂い。
父の任務はそれほど困難なものなのだろうか。
ティルにはそうは思えなかった。むろん戦場であるのだから、その身は常に危険にさらされているだろう。だが、今回の任務はすでにもう何年も続いている北の都市同盟との小競合だと聞いた。テオは過去にも何度もその戦に出向いている。今回が特別だとは思えない。
それなのに、なぜソニアはこんな風に思い詰めた顔で父の身を案じているのだろう。

純白の薄いレースを通して光が差し込む。室内を漂う微量の埃が光を反射してキラキラと輝いた。
テーブルに飾られた大きな白い花が甘い匂いを振りまく中、穏やかな沈黙が訪れた。

ソニアはいつも父を尊敬していると言っていた。同じ帝国に仕える将軍として尊敬している、と。
ティルは紅茶に口をつけて、それからソニアを見た。静かに彼女は思案するかのように、視線をテーブルの角に固定している。
ティルは自然と悟った。ソニアは父の事が好きなのだ。
それは多分グレミオたちが父を想うのとは違う。将軍だからというだけでもなく。また、ティルが父を好いているのとは全く違った意味で、好き、なのだろう。

「大丈夫だよ。父さんはきっとすぐに帰ってくるよ」
ティルは落ち込んでいるソニアを励ます気持ちでそう言った。
顔を上げたソニアはマジマジとティルを見つめた。驚いたような困ったような色が瞳に浮かぶ。微笑もうとして口元を歪めた。その顔はこの場を取り繕うとしているだけで、口を開けば言い訳が飛び出してくるのだろうと思えた。
ティルは突然居心地の悪さを感じた。言ってはいけない事を口にしたような気になった。

けれどティルには好きな人を『好き』と言ってはいけない理由が分からなかった。好きの種類にはいろいろあるが、例えソニアが女として父の事を好きだとしても、ティルはおかしくないと思っていた。
この頃のティルは、好きの違いには気付いていても、年の差だとか再婚だとかそういった世間的な事はまだ知らぬ半端な年頃だった。
だから、始めてみるソニアの女の顔に戸惑い、今まで好きだった女性的なこの空間に急に居たたまれなくなったのだ。

恥かしいような気持ち悪いような、自分でもよく分からない気分に襲われて、衝動的にティルは立ち上がった。
何か言いかけたソニアを遮って、テッドに会う用事があるとかなんとか適当な口実で、お茶の礼を告げると早々に立ち去った。ソニアは驚いて立ち上がりかけたが、屋敷を飛び出すティルを呼び止める事はなかった。



「おかえりなさい坊っちゃん。早かったですね?」
ソニアの家を出た後、テッドの所にも立ち寄らずティルは真っ直ぐ家へとかけ戻った。
キッチンには相変わらずグレミオがいて、昼御飯の支度の前に一休みしているところだった。キッチンは綺麗に片付いていて、飾り気のない清潔感があった。
只一つ、母の飾り棚だけが、統一された空間の中で異質な雰囲気を放っていた。
今まで当たり前のようにキッチンの片隅に置かれていたその飾り棚は、日常に紛れ気が付かなかったのだが、改めてみるとそれはこの空間にはそぐわない物だった。
調和を乱す、華やかに飾り立てられた棚。

「テッドくんの所には寄らなかったんですね」
腰掛けたグレミオの前には紅茶の入った白いマグカップがあった。嗅ぎ慣れた落ち着きのある紅茶の香りだ。ティルはグレミオの問いに頷いた。
「テッドのとこには後で行くよ」
グレミオは少しだけ不思議そうな顔をしたけれど、それ以上穿鑿するような素振りは見せず微笑んだ。
「坊っちゃんも紅茶を如何ですか?」
「うん。もらうよ」
ティルの愛用のシンプルなマグカップに紅茶が注がれる。
ソニアの事について聞かないグレミオにほっとした。きっと、様子のおかしい自分を思いやってわざと聞かないのだと思った。
だって、出かける度に一々『気を付けて』なんて言う彼が、おつかいの結果について尋ねないなんておかしいもの。だからティルはそのちょっとしたグレミオの親切に心の中でこっそり感謝した。
ソニアと自分との距離が微妙に変化した事を意識してしまった今、彼女の話題は気まずかった。
グレミオは彼女の気持ちに気付いているのか気になったけど、彼の様子から鑑みるに、おそらく知らないのだろう。変なトコで鈍いから。ティルの心境の変化には驚くほど鋭いのに。
どちらにしろティルは誰にも告げる気はなかった。テッドにもグレミオにも自分からは言わないだろう。

その時のティルは不思議な事に、父がどう思っているのかは考えなかった。思いつかなかったという方が適切だろう。
感は優れていても未だ幼い少年の哀しいほど微笑ましい一面だった。
ティルはただ、向かいで微笑むグレミオとその背後にある飾り棚に並べられた食器を見つめながら、母はいらないと、そう思った。



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